【ETC/日本】 CSKのうた (~2001年頃まで) ≪CSK≫

イメージ 1

1984年以降~2003年まで、セガと共にその親会社として歩んできたCSK。

昔々・・・1984年頃。
セガハード的にはSG-1000II発売の年

当時、セガ外資系企業だった。

非常に厳しい経営だったセガは、その親会社である(映画配給で有名な)パラマウントの意向により
当時セガ社長だったローゼン氏を更迭させられるという事件に見舞われていた。

ローゼン社長というのは、どうにもおおらかな且つ大雑把な人だったらしい。
実際に、セガの経営を指揮していたのは中山隼雄副社長だった。
この中山隼雄氏こそセガの父とも謳われた人物。

主導権がアメリカに奪われると危機感を覚えた中山氏が、
CSKの故・大川功氏に、セガへの資本参加を相談する。

そして、中山氏、大川功氏の両雄が揃ってアメリカに飛び、パラマウントの会長マイケル・アイズナーと交渉、
セガを日本に買い戻すことに成功した逸話は、
あまりにも熱すぎて今、聞いても興奮する。

この時、CSKグループ傘下に入ったことにより、セガは名実ともに日本企業となった。

尚、当時のパラマウントはガルフの傘下にあった。
(つまり、セガはガルフの子会社の子会社だった時期があった)
またパラマウント会長のマイケル・アイズナーとは、
後のウォルト・ディズニー・カンパニーのCEOになる人物である。




「ハヤオー」の名でセガファンの間で知られる中山隼雄氏は、
セガの父ともいえる存在で、セガがCSKグループ傘下に入ると同時にセガ社長に就任する。
社長に就任する以前、1979年以降から日本での陣頭指揮はほとんど中山氏が担っていたのもあり、
事実上のセガの創業者といってよい。
セガという会社の独特のカラーはまさに中山カラーなのである。
CSK大川功氏、任天堂 山内溥氏と並んで、はんぱないバイタリティとカリスマ性をもった人物だった。



大川功氏はCSKの創業者。
企業相手のシステム開発がメイン事業のCSKと異なり、一般家庭をターゲットとしたゲーム開発を行うセガに、
大川氏は大きな可能性と魅力を感じていたようだ。
CSKグループへセガを招き入れた後、セガの会長に就任、その後2001年に氏が亡くなるその寸前まで
セガに愛情を注ぎこむ。それはもはやセガファンの間で伝説となっているほどである。


中山氏と大川氏の両氏の力により、90年代のセガは爆発的な急成長を遂げる。
共に強烈な個性の持ち主であるが故に、衝突を繰り返し、軋轢を生みながら。


中山セガと大川CSKは、単純な子会社・親会社という関係ではなく、
それこそ本物の親子関係のような非常に深い絆で結ばれていたといってよい。(親子喧嘩含む)


尚、ロボピッチャのCMやDCの湯川専務CMで一躍有名になった湯川英一氏や、
日本版MDソフトをコンプし「タケちゃん」とセガファンの間で慕われている竹崎忠氏も、
もともとはCSKからセガに出向してきた人物だ。



イメージ 2
今回紹介するアイテムは、CSKの社歌が収められたCD『CSKのうた』
大川会長の意向で作成されたCDで、大川氏が亡くなるまでの間、CSKの新入社員などに配られていた模様。

イメージ 3
収録曲は配布時期によって異なると思われる。

以下、このCDの収録曲
1.CSK社歌 (歌:デューク・エイセス
2.CSK社歌 ニューウェーブVer
3.We are No.1 (歌:トランザム
4.CSKズッコケ音頭 (歌:デューク・エイセス
5.東京ラプソディー (歌:大川功


1のCSK社歌は有名な中村八大が作曲。
2はCSK社歌のリミックスなのだが、New Waveというよりはテクノ歌謡アレンジ。
4は一部でかなり有名なシステムエンジニア哀歌『CSKズッコケ音頭』。個人的には苦笑いしてしまう曲だ。
5は大川会長による『東京ラプソディー』のカヴァーである。つかカラオケである。
そのうえ、ライブ録音で、CSK社員の合いの手も入っている。つかカラオケである。
何故かこの曲は、CSKの第2社歌になっている。何故この曲が第2社歌なのか大川会長しか知るまい。

実は、個人的にこの収録曲の中で一番気に入っているのは、大川会長の歌う東京ラプソディーである。
それはそれはもう…気持ち良さそうに歌い上げている。唯一、リピートして聴いた。


尚、このCDには収録されていないが都はるみが歌うCSK企業ソング「今がその瞬間」なども存在する
なんとも豪勢な社歌である。恐らく完全に大川会長の趣味なのであろう。




最後に今回の記事に登場したメイン人物の去就について触れておく。

中山隼雄氏は、メガドライブ/GENESISセガサターン初期にセガ黄金期を築き上げる。
これは経済界的にも奇跡といえる大躍進だった。
しかし、SEGA SATURNを含めた海外事業の失敗、国内セガサターン事業の停滞の憂き目に会い、
1998年に引責辞任の形で社長職を辞し、副会長に退く。
その後、まもなく1999年には自分の分身ともいえるセガをひっそりと退社することになる。


大川功氏は、経営が傾きかけていた2000年にセガ社長に就任し直接に陣頭指揮。
実はこの時、食道ガンに犯されながらも短期間に克服している。体力的にも辛いものがあったはずだ。
翌2001年、「ドリームキャストの生産中止」と「セガのハード事業撤退」を発表。

#この決断は大川氏も辛かっただろうが、記者会見で発表をした佐藤秀樹副社長も断腸の思いだったであろう。
佐藤秀樹氏は歴代セガハードの開発に携わってきたまさに「セガハードの父」だったからだ。

大川氏は続けざまに、セガへ個人資産約850億円の寄付を行い、必死にセガの経営建て直しを図る。
が、その2ヵ月後。志半ばにして、心不全のため逝去してしまわれた。



大川氏に関連して、近年になってこんなこぼれ話が流出した。

X-BOXを開発していたマイクロソフトに対し、
セガのソフトタイトルの提供を行う代わりに、ドリームキャストととの互換性をX-BOXに持たせてくれるように
大川氏が直々に何度も出向いて、ビル・ゲイツと交渉していたらしい。
X-BOXドリームキャストの上位互換機となればドリームキャストのソフトを買ったユーザも
報われるといった狙いがあったのだろう。
しかし、X-BOXはネット接続を前提としていないという理由で破綻したようだ。


大川氏はネット接続機能を最後まで最重要視していた。
実際、ドリームキャストにモデム標準装備させたのは大川功氏の強い意向によるもので、
逆に中山隼雄氏はこれを強く反対していたという。
※別にどちらが正しいとか誤っているという話ではない。



どうしよ。俺、なんかいろいろと泣いちゃいそうですよ?
イメージ 4









【入手容易度】(易/やや難/難/かなり難/極めて難)
 ≪かなり難-極めて難≫
【プレミア度】(極安/安/普通/高/極高)
 ≪普通-高≫